-
【編集長の戯言】被写体の心を丸裸にする写真とは....
本当に丸裸になっているのは被写体なのか、フォトグラファーなのか
「写真」は真を写すと書くが
実際に写真に写るものってなんだろうか。
今日書くことも、あくまで「私見」であって「正解」ではなく、人によって感じることは違うだろうからサラッと読んで欲しいw
「本当の私が写ってる」「こんな私見たことない」「これは私ではない」
写真を見ていろいろ感じることはあるだろう。
しかしそれは、被写体の本当の姿が写っているからなのか?
写真とは被写体の心の中まで写せるものなのだろうか。
私が思うに、実は写っているのは被写体の真の姿ではなく
フォトグラファー(撮り手)側の心の中ではないだろうか。
なぜそう思うかって、認定作品を審査する私は1日に何百という作品を見るのだが、その作品は千差万別。
技術的に上手な人も、まだまだ練習中な人もいるのだが、共通して写るものがひとつだけあるように感じている。
それは、フォトグラファーの好みである。
その顕れは「表情」であったり「仕草であったり」「光」だったり「部位」であったりと人それぞれだが、それであってもやはりフォトグラファーの好きな部分、興味のある部分に写真が引っ張られるものだ。
結局、シャッターを切るのがフォトグラファーである以上、その目線こそが写真の画角であり構図となり、気付けば結局自分の好み・撮りたいものを撮っているのだ。
つまり、写真に写っているのは被写体の心や心情ではなく
フォトグラファーの心の中であり頭の中ではないだろうか。
ということは、被写体は「本当の自分を写して欲しい」と思ったら、
自分好みの写真を多く撮っているフォトグラファーにコンタクトをとればいいのではないだろうか。
それこそが、自分の理想の写真、そして理想の自分像にたどり着く近道だったりするのかも。
とある知り合いのフォトグラファーが
「何の経験もない貴方の撮る写真には、なんの興味もない」
「興味のある人間性を持つ人の写真は、もっと深く知りたくなる」
と語っていたことがあった。
まぁ、今思えばなんとなく理解はできる。
例えば、恋愛したことのない子供に「失恋した被写体の悲しみを表現した作品を」と言っても無理があるような。
社会で働いたことがなく、上司に怒られた事がない人に、「朝会社に向かう重い足取りを表現してみて」というのも無理があるように。
写真に写るのがフォトグラファーの人間性そのものだとしたら、そのフォトグラファーがどう生きてきたのか、が写ってくるのかもしれない。
またその人の「厚み」そのものが作品の「深み」であり、写真を見る上でとても重要なのことのひとつになりうるのかもしれない。
私は髪の動きが好き。気怠そうな目線が好き。肌の質感はもちろん、木や岩の質感も好き。
そして晴れた笑顔も好きだが、何かを思い考え込むような表情にグッとくる。
だからなのか。気づけばそんな方向へと撮影を導いてしまう。
私が思うに被写体の心を丸裸にする写真を! と思って引き出せば引き出すほど、自分の好みが駄々溢れて
本当に丸裸になっているのはフォトグラファーなのではないか、と思った次第である。